おうちでミュージアム
ouchi museum
インターネットで広島城(博物館)の魅力をお伝えします。
広島城所蔵資料の一部をご紹介
13 初午(はつうま)ってなぁに?
(「里見雲嶺 宮参り(初午)」)
この作品は、初午のお宮参りを描いたものです。画面の奥には稲荷神社の連なった赤い鳥居とたくさんの幟が見えます。手前には、男性と幼い女の子、後ろからは荷物を持った男の子がついて来ており、その手には、白い狐が描かれた絵馬が握られ、今から神社へ絵馬の奉納に向かっていることがわかります。
江戸時代、子どもたちが楽しみにしていた行事のひとつに「初午」がありました。この日は、各地の稲荷社で豊作や商売繁盛、家内安全などを願ってお祭りが行われたのです。神社には色とりどりの幟が立ち、神様のお使いである狐の好物とされる油揚げ、赤飯や団子、お酒などが供えられ、多くの参詣者でにぎわいました。
この初午の祭りは、2月の最初の午の日に、京都の伏見稲荷大社に稲荷大明神が鎮座したことが由来とされています。2月の初午の日を今の暦に当てはめると、おおよそ3月のはじめごろになります。
また、初午は、物事を始めるのに良い日ともされていました。このため、数え年で7〜8才の子どもが寺子屋に入る「寺入り」の日でもあったのです。寺子屋は子どもたちが読み書きやそろばんなどを学ぶ場で、ここでの教育によって、江戸時代の多くの人が字を書いたり読んだりすることができたといわれています。この日、親に連れられて子どもは、先生の元に挨拶に行ったのです。作中の女の子が少し緊張した様子なのは、寺子屋への入門を連想させているのかもしれません。
また、男の子が持っている瓢箪や傘は、ともに末広がりで縁起の良いものです。この作品には、初午の五穀豊穣、商売繁盛のみならず、子どもの成長や無病息災などの願いが込められてるといえそうです。
12 広島城下の窯(「芸州広島図」)
江戸時代後期、文政年間(1818~1830)頃の広島城下を描いた『芸州広島図』という絵図には、2か所で大きな煙が立ち昇っている様子が描かれています〔写真上〕。一見火事と見まちがえそうなこれらの煙、実は焼物を作る窯から出ています。広島藩の焼物と言えば、沼田郡江波村(中区江波)で文政11年(1828)から生産された陶磁器、いわゆる江波焼が有名です。しかし、煙が出ている場所は江波村ではありません。では、どこにどの様な窯があったのでしょうか。
まず、図中右上の煙を見てみましょう。こちらは竹屋町(中区富士見町・三川町・流川町)内にあった登り窯、竹屋窯から出ています〔写真中〕。登り窯とは、斜面に沿って焼成室(陶磁器を焼く部屋)を階段状に築いた窯で、絵図には窯を覆う細長い屋根が描かれています。
竹屋窯は文化9年(1812)に油屋忠右衛門という商人が設けた窯で、産業を盛んにしたい藩も深く関係しながら陶磁器が作られていました。竹屋窯に関する記録は文政11年2月で途絶えますが、その2か月後には江波焼が始まっており、江波焼の生産者も油屋忠右衛門であることなどから、竹屋窯と江波焼は無関係では無く、竹屋窯は江波の窯の前身であると考えられています。
一方、図中右下の煙は、舟入村(中区舟入町・河原町・舟入中町・舟入本町・舟入幸町・西川口町・舟入川口町)内にあった窯から出ており、こちらは瓦を作る窯でした〔写真下〕。この瓦窯は中央に半球状の焼成室が設けられたもので、だるまの様に見えることからだるま窯と呼ばれます。舟入村内でだるま窯が設けられた一角は、築城の頃から瓦職人がいたとされ、江戸時代後期には「瓦焼」と呼ばれていました。
竹屋窯とだるま窯、いずれも文字の記録によって詳しい歴史がわかりますが、それに絵図が加わるとさらに深く掘り下げることができます。みなさんも絵図を読み解いてみませんか。
11苦しい時の神頼み…(「刷物 菅原道真公」)
壇上に衣冠束帯姿で腰に太刀を佩き、手に笏を持って威厳を示して座っている人物は誰でしょう?
衣装や上の幕に梅紋が使われていることから、菅原道真ということがわかります。
道真は平安時代の貴族で、右大臣にまで昇りつめたのですが、陥れられて九州の大宰府に左遷、失意のなか、この地で亡くなりました。
彼の死後、天変地異が多発したことから、祟りを起こすようになったと恐れられ、「天神」として祀られました。
しかし現在では学問の神として親しまれています。
「飛梅伝説」が残されているように、道真は梅をこよなく愛し、彼を祀る各地の天満宮には梅が植えられています。
またこの絵の両脇には、狛犬と武官がそれぞれ対で配置されています。
狛犬は、神社などでよく見かけますが、これは魔除けのためです。
一方は口を開き、他は閉じるという阿吽(あうん)で一対として置かれるのが普通です。
さらに道真の背景には松竹梅の絵も配されており、なんともおめでたづくしの絵となっています。
これは江戸時代、学問上達の願いを込めた絵として作成されたもののようです。
今も昔も学問の神様に願うことは同じかも!?がんばれ!受験生!!
10 鬼は外なんて言わないで… (「山縣二承 鬼図」)
2月3日は節分です。
最近ではすっかり恵方巻にお株を奪われていますが、やはり節分といえば豆まき。「鬼は外、福は内」の掛け声とともに、豆をまいて鬼を追い払う恒例行事です。
節分はもともと、立春(暦上の春の始まりの日)の前日つまり季節の変わり目には邪気が生じると信じられていたため、鬼=邪を追い払って新年を迎える行事です。豆まきを行うことで邪気を払い、無病息災を願う意味があります。
さて今回紹介するのは、山縣二承の描いた鬼の絵です。
山縣二承は江戸時代の後期に広島で活躍した絵師で、画とともに俳諧をよくし、「疎画」と称される粗いタッチの個性的な作品を数多くのこしています。
この絵に描かれる鬼たちは、青鬼、赤鬼、白鬼の三鬼。虎柄の腰巻きにトゲトゲの金棒といった、The・鬼スタイルです。座り込む彼らの傍らには、大きな釜。釜は火にくべられ、煙がもうもうと上がっています。
釜の中は見えませんが、おそらく、ぐつぐつと煮えたぎる湯で地獄に落ちた人間を「釜茹での刑」に処しているのでしょう…。
そんな本来であれば恐ろしい情景を描いているはずなのに、この絵はなんとも楽しげな雰囲気に見えるのは私だけでしょうか。まるで、おやつの芋でも茹でているかのよう。
まあ、この「ゆるさ」が二承の絵の特徴なので、笑って許してあげましょう。
全体に二承らしい大胆な筆致で描かれ、とくに焚火から勢いよく吹き出す煙の描写はお見事です。
画面右上の落款は「二承老人寫意」。「寫」の字の中程からは文字に煙がかかり、かすんだように表わされるなど、創意に富んだ表現も見どころです。
コロナがなかなか収束しない今の御時世、鬼(病魔)はいつにも増して悪者扱いかもしれません。でも、こんなシュールな鬼たちだったら、少しくらいはお家に入れてあげてもいいかな、という気にしてくれますね。
9 広島城天守復元関連資料 part2
現天守復元に関する資料の中には、設計に関する資料もあります。
当時の設計は、戦前に国によって作成された実測図(文化庁所蔵)を基に設計事務所が行いました。
実測図には要所に寸法が記されていて設計の手助けになったのですが、残念ながら外装部分には記されていません。そのため、屋根の破風や狭間など古建築の技法を必要とする部分の設計が宮大工に任されていました。
破風とは屋根の造形のことで、天守閣を飾る代表的な意匠の一つです。ゆったりと弧を描く美しい屋根に目を奪われた人もいることでしょう。狭間は鉄砲や弓で外に向かって攻撃する窓のことです。
そして宮大工とは神社仏閣の建築や補修にたずさわる大工のことで、特殊な意匠を持つ城郭建築の設計をするにあたって白羽の矢が立ったのでしょう。
広島城には、設計を請け負った宮大工のご家族から寄贈された図面が収蔵されています。大きく2種類に分けることができ、一つは破風に関するもの、もう一つは狭間に関するものです。
前者については、設計事務所が実測図を基に昭和32年(1957)6月4日の日付で準備した図面に対して、破風部分の屋根の勾配に関する書き込みが鉛筆でされており、所々計算式も描かれています(図版)。
一方、狭間の設計図には朱線で修正が加えられています。宮大工が何度か設計図に修正を加えて、最終的には昭和33(1958)2月26日に完成させたようです。
ところで、2月26日は、なんと竣工の一ヶ月前でした! 細かい部分の設定は建設工事と同時進行で行われていたのです。突貫工事の中、なんとか竣工にこぎつけた努力のあとがうかがえます。
8 広島城天守復元関連資料 part1
少し前になりますが、平成19年(2007)、広島城に写真資料の寄贈がありました。
それは広島城天守の古写真を複写したガラス乾板(写真撮影で用いられた感光材料の一種)でした。天守全体の写真だけではなく、屋根の一部のみを拡大したものもあります。
ちょっと不思議な資料ですが、見ているうちに「これって見覚えがある…」となりました。
当館には現在の天守の復元に関する資料が収蔵されていますが、その中に「広島城天守閣復元関係写真帳」というものがあります。
これは復元を担当した広島市建設局営繕課 工事監督技師 松本正夫さんが寄贈されたもので、松本さんが鯱瓦や屋根瓦の復元のために使用した写真が収められています。
その中に新しく寄贈された写真と同じトリミングのものがあり、これらは天守閣復元に関わるものだと分かりました。
さて、ガラス乾板はかつて広島県警本部の鑑識課に所属していた寄贈者のお父さんが所蔵されていたものなのですが、警察の人が何故この写真を持っていたのか、という疑問が湧いてきます。この謎を解くために、さらに写真帳を見てみましょう。
写真帳の写真には、トレーシングペーパーが被せられているものがあり、その紙には細かな数字などが書き込まれています(図版)。
実は、かつての天守閣に使われていた屋根瓦はほとんど見つからず、復元の参考にすることができませんでした。
そこで、古写真に写っている屋根瓦を参考にし、その形状・寸法の割り出しを行ったのです。同じく広島城の収蔵資料である松本氏の手記によると、この割り出し当時には広島県警本部鑑識課の非公式な協力を得ていたとあります。
そう、寄贈者のお父さんは鑑識の技術を利用して割り出しを行った人だと考えられ、もしかしたら写真に書き込みを行った本人かもしれません。
天守再建当時の苦労がしのばれると同時に、意外な手法が使われていた事実が分かる資料です。
7 お殿様と家臣の素敵な関係(「牡丹図」)
右側の短冊には「七十年見続けているがあきることが無い。生まれ変わっても花を愛する人と作りたい」という意味の詩が書かれています。
これは、広島浅野家第5代藩主綱長(つななが)が重用していた家臣で講学館(藩が設置した学問所)教授である寺田臨川(てらだりんせん)に書き送ったものです。
臨川は殿様亡き後もずっと大切にしまっていたので、30年経っても墨の色があせることがありませんでした。
藩の要職についていた岡本貞喬(おかもとさだたか)は、この色あせていない書を見て感動し、自身も牡丹の絵を描き送ったのが貼り交ぜとして一枚の額におさめられています。
臨川は元文2年(1737)3月、この由来について賛として丁寧に書き記しています。これをその子孫も代々大切に遺していたので、現在私たちがこうして目にすることができるのです。
大切な人たちからの贈り物を思い出として大切に遺す、素敵な関係性をここに見出すことが出来る貴重な資料のひとつと言えます。
6 江戸時代の親孝行(『芸備孝義伝 初編』)
『芸備孝義伝』は、広島藩内で親孝行をした人や、主人に忠義を尽くして表彰された人たちの話をまとめた書物です。広島藩は、これを幕府に献上するとともに、領民にも頒布して民衆教化を進めました。
明暦3年(1657)から寛政3年(1791)までの約230人の善行が記されており、享和元年(1801)に刊行されました。初編に続いて第二編・第三編・拾遺が出版され、その後、増刷されています。当館所蔵のものは、明治時代の版です。
挿絵は、「稲荷町辰巳屋伝兵衛妻みつ」という話の一場面です。
みつは、稲荷町の伝兵衛の嫁で、齢80歳を超えた姑をいつも優しく、心を尽くして世話しています。
姑が寺に参る時はいつも一緒に行き、夜も用心のために姑と自分の帯をくくりつけて眠るほどでした。
姑は、糸を縒(よ)りつむぐ作業をする際も、目や手元がおぼつかないため、遊び事程度で生活の足しにはなりませんでした。
しかし、みつは姑のつむいだ糸に、そっと自分のつむいだものを足して、「今日はことさら良い糸ができていますね。早めに休んでくださいね。」と姑を思いやり、喜ばせたということです。
挿絵はこの場面を描いており、姑とみつが穏やかな笑顔で寄り添っているのが印象的です。
こうした親孝行が称えられ、みつが28歳の時、寛政2年(1790)12月27日に銀三百目が与えられたと記されています。
5 馬のゼロヨン的なやつ(「競騎図」)
この絵のタイトルは「競騎図」といいますが、競馬の様子を描いています。昔は競馬と書いて「くらべうま」と読みました。
この「競馬(くらべうま)」とは、奈良時代に馬の速さと馬術を競う宮中の行事として始まり、やがて神事に発展したものです。
さて、この絵をよく見て下さい。馬は2頭しか描かれていません。「競馬」は直線コースのマッチレースなのです。それと、馬上の人がどうもレースに集中していません。「やあ!やあ!」と叫んで、お互いに相手の邪魔をしながら走っています。
けっしてせこいことをしているわけではなく、これが「競馬」の作法なのです。武芸としての色を残しているのです。
現在では京都上賀茂神社などの「競馬」が有名です。
描いたのは熊谷直彦(文政11年(1829)~大正2年(1913))。江戸時代末期から明治時代を通して活躍した日本画家です。
京都に生まれ、お父さんは賀茂の神職でした。12歳で四条派の岡本茂彦に入門し、日本画を学びました。
後に広島藩士熊谷家の養子となり、藩の仕事に携わります。
明治維新後は東京に出て、本格的に画家として活動しました。明治37年(1904)には帝室技芸員にまでのぼりつめました。
とてものびやかで優雅な画風で知られます。職務がら、有職故実(古来の礼法の研究)や、衣冠束帯(公家の正装)に詳しかったからでしょうか、作品には品格がにじみ出ています。
・・・からの、学芸員の無謀な挑戦
「競馬」かっこいい!いっそ甲冑武者!目指せ巴御前!やればできる! ということで、取り急ぎ和式馬術に挑戦する学芸員がいました。
しかし、見るとするとでは大違い。それはそれは高度な世界でした。
ぼーっとしていて足を踏まれる。調子に乗って走れば即落馬。筋肉痛で足はがくがく。完全に馬になめられ「行け」といえば止まる。「止まれ」といえば動く。巴御前への道のりは遠い・・。
甲冑を着ていると重いし、体の自由がきかないし。そして、甲冑を着てこけたらひとりでは起き上がれないということと、馬ってやさしいことがわかりました。
4 コロナ退散?(「日蓮上人坐像」)
手のひらサイズの小さな厨子(ずし)。中には、これまた小さなお坊さん?のような仏像が安置されています。
お像の台座部分には「日蓮(花押)」の銘。その上部に書かれた「南無妙法蓮華経」の文字。
このことから、小さなお坊さんは日蓮宗の祖・日蓮上人であることがわかります。サイズ感からして、おそらく携帯用として持ち歩いていたものでしょう。
実はこの日蓮上人像、背面にも銘文が刻まれています。
残念ながら一部は摩耗で読めなくなってるのですが、中央には「南無妙法蓮華経」、それを挟んで右に「病即消滅」、左に「不老不死」「経王」などの文字が見えます。
これらの出典は、『法華経』の『薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)』(『薬王品』)です。
『薬王品』では『法華経』を「諸経の中の王」と位置づけ、「法華経を信じる者はさまざまな功徳を得ることができる。
そのひとつが法華経の教えを聞くことができたなら、たちまちに病が治り、不老不死になるというものである」と病気平癒・不老不死の功徳を説いています。
銘文には、この功徳にあやかり「病気に打ち勝ち、健康に長生きしたい」という願いが込められているのでしょう。
小さな日蓮上人は、病気平癒・健康長寿のお守りとして、大切に伝えられたのではないでしょうか。
今も昔も、病気を避けて健康で過ごしたいという思いは同じ。みなさんも、コロナに負けずに頑張れるよう、日蓮様にお願いをしてみてはいかがでしょうか・・・?
3 お城で美女発見!(「魚籃観音図」)
見返りながら色白のその人は立っています!髪型や服装から日本人ではない雰囲気です。右手に竹の籃(かご)を持ち、中には鯉が頭を出しています。彼女はいったい何をしているのでしょう?
むかしむかしの中国でのお話。まちで魚を売り歩く美女がいました。その美しさにひかれて、多くの若者たちが集まったのです。
彼女は彼らにお経を声を出して読むように勧めて、お釈迦さまの教えを広めたということです。
実はこの美女、「魚籃観音(ぎょらんかんのん)」という観音様が姿を変えたものなのです。
絵はこの伝説を基に描いたもので、作者は里見雲嶺(さとみうんれい)(1849~1928)という人です。
明治~大正時代に活躍した、広島を代表する画家です。雲嶺は美しいだけでなく妖艶に魚籃観音を表現しています。
ただ、足元を見ると裸足なのはなぜ?爪が長いのも気になる・・・謎めいた絵ですね。
みなさんはミステリアスな女性には魅かれますか!?
2 広島城の金のしゃちほこ
天守閣などに見られる「しゃちほこ」は、想像上の生き物である「鯱」(しゃち)をかたどった瓦や木造銅板張の飾りで、口から水を吐くという言い伝えから火除けのために屋根に置かれたとされます。
「しゃちほこ」というと名古屋城の金鯱が有名ですが、広島でもそれに負けない鯱瓦が発見されたことをご存知でしょうか?
発見されたのは天守閣から400ⅿほど離れた場所にあった、武家屋敷跡や堀跡などからなる遺跡で、屋敷に設けられた井戸からオス・メス一対の金箔鯱瓦とイタヤ貝の文様を持つ金箔鬼瓦が出土しました。
これらは瓦の表面に金箔を貼り付ける金箔押の技法であざやかに飾られた金箔瓦で、その形などから毛利輝元が城主だった時期(1589-1600)に作られたと考えられます。
高さは70㎝程度と天守閣で使うには小さいため、城内の門や櫓などに使われたようです。
金箔の残りが良く残り屋根に葺かれていた期間は短かったと考えられること、井戸は福島正則が城主だった時期(1600-1619)に造られた可能性が高いことから、福島氏の時期、あるいは浅野氏が城主となってからの早い段階(17世紀前期)で、何らかの理由によって屋根から下ろされ、井戸に埋められたと考えられています。
金箔瓦は全国数十カ所の城跡でたくさん出土していますが、ほとんどが破片です。金箔鯱瓦と金箔鬼瓦がセットで、しかもほぼ完全な形と鮮やかな色彩を留めて発見されたのは広島城だけであり、お城の歴史を考えるうえでとても貴重な発見となりました。
1 縮景園の絵葉書
江戸時代の武家文化の一端に触れられる貴重な空間で、現在は四季折々に美しい姿をみせる名勝「縮景園」は、広島城と同じくコロナの影響で閉園しています。
「縮景園」は、今からちょうど400年前の元和6年(1620)に広島藩の家老で茶人・作庭家としても知られている上田宗箇によって築庭され、代々の藩主に愛されました。
第7代藩主浅野重晟が招いた京都の庭師清水七郎右衛門によって、1780年代に改築され、現在の姿となりました。昭和15年(1940)以降は一般にも公開されました。
昭和20年(1945)、原爆によって壊滅的被害を受けましたが、復旧を重ねてかつての姿を取り戻しました。
この絵葉書は、原爆前の様子で、正面の清風館や悠々亭、明月亭などの建物、縮景園を代表する跨虹橋(ここうきょう)と濯纓池(たくえいち)の他、超然居、看花榻(かんかとう)、迎暉峯(げいきほう)など様々な場所が写っています。
面白いのは、いくつかの絵葉書が左右反転した裏焼きとなっています。
デジタルカメラが発達した現在では考えられませんが、フィルムを使っていた最近まで起こりえました。
風景写真は、人物などと異なりどちらが表かわからないので、知らない人が現像すると時々裏焼きになってしまうのです。
なお、今回掲載している絵葉書は正しい向きです。
しろうニャさんと遊ぼう!
おうちでしろうニャさんのぬりえや帽子のデータをダウンロードして遊ぼう。
しろうニャさんのぬりえ
広島城イメージキャラクター「しろうニャ」さん
「しろうニャ」さんのおなかま、「にのまるズ」
「しろうニャ」さんとなかよく手あらい!
「しろうニャ」さんとお月見をたのしもう!
ジメジメに負けるな!!
ねこはコタツでまるくなる?
しろうニャさんのぼうし
「しろうや!広島城」ピックアップ
広報紙「しろうや!広島城」から選りすぐりの話題をピックアップしました。
広島のソウルフード
広島のソウルフードといえば、お好み焼き!
どんな歴史があるのでしょうか?江戸の人も食べていた!?
母上さま、お元気ですか~?
今年の母の日は、お母さんに会いに行きたいけど自粛…。
ちょっと照れ臭いけど、こんな時こそお手紙を書いてみませんか?山陽先生の長い手紙。
まぼろしの馬具展
企画展「そこのけそこのけ!お馬が通る」は、途中から休館になったのでそのまま終わってしまいました。せめてこれ見て。
広島城エアお花見
今年はお花見ができなかった人も多いはず!?
ということで・・・エアお花見はいかが?
広島と傘
梅雨の時期がやってきます。
実は広島は和傘づくりが盛んだったのです!
YouTube「広島城おうちでミュージアム」
フィールドワーク動画
干拓堤防の痕跡を探す!
現在の広島市内に残された江戸時代の干拓堤防の痕跡を紹介します。
企画展紹介動画
企画展「山縣二承と里見雲嶺 ~広島四条派の系譜~」をちょっとご案内
途中休館となった企画展「山縣二承と里見雲嶺」の中から、二承と雲嶺の資料を中心にご紹介します。
収蔵品展「文人たちの書~モノクロームのなかの個性」をちょっとご案内
休館で会期が少し短くなった、収蔵品展「文人たちの書」の一部をご紹介します。
企画展「江戸時代の旅事情」をちょっとご案内
休館のため、展示期間が短かった、企画展「江戸時代の旅事情」の一部をご紹介します。