広島城関連年表
chronology
年月 | 広島の できごと |
日本全体の できごと |
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長禄元 (1457) 3月 |
周防・長門・備前・筑前の守護大内氏が安芸に侵入し、安芸守護家の武田氏と戦う | |
応仁元 (1467) 5月 |
応仁・文明の乱で大内氏は山名方、武田氏・毛利氏は細川方で参戦する | 応仁・文明の乱が始まる |
永正12 (1515) |
この年、武田元繁が反大内の兵を挙げるが、永正14年(1517)に毛利元就によって討たれる。以後、武田氏の勢力は急速に衰える | |
大永3 (1523) 6月 |
16世紀初頭から出雲を中心に勢力を伸ばしていた尼子氏が毛利氏などを味方に引き入れ、安芸国に侵入する | |
大永3 (1523) 8月 |
毛利元就が家督を相続し、吉田郡山城に入城する。元就は尼子氏と大内氏の狭間で次第に勢力を伸ばしていく | |
天文9 (1540) 9月 |
尼子氏、郡山城を攻めるが、翌年1月出雲に敗走する(郡山城合戦) | |
天文10 (1541) 5月 |
大内・毛利軍が金山城を攻略し、安芸武田氏が滅亡する。元就は遺領を与えられ、広島湾に進出する足がかりを得る。 | |
天文15 (1546) |
この年、毛利元就が子の隆元に家督を譲るが、その後見役として実権を握り続ける | |
天文20 (1551) 9月 |
大内義隆、家臣の陶隆房(晴賢)に討たれる | |
天文23 (1554) 5月 |
毛利氏、陶・大内氏と断交。広島湾頭の陶方諸城を攻略し、厳島を支配下に置く | |
弘治元 (1555) 10月 |
毛利氏、厳島で陶晴賢を討つ(厳島合戦) | |
弘治3 (1557) 4月 |
陶晴賢に擁立されていた大内義長、毛利軍に攻められ自害。元就は周防・長門を支配下に治める | |
永禄3 (1560) 5月 |
桶狭間の戦いで、織田信長が今川義元を破る | |
永禄6 (1563) |
この年、毛利隆元の急死により、子の輝元が家督を相続する | |
永禄9 (1566) 11月 |
尼子氏、毛利氏に降伏 | |
天正元 (1573) 7月 |
織田信長、将軍足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼす | |
天正2 (1574) |
この年から毎年、毛利輝元は西進する織田信長と備中・美作方面などで戦う | |
天正4 (1576) 2月 |
織田信長、安土城を築城 | |
天正10 (1582) 6月 |
羽柴秀吉、毛利氏と和睦し、明智光秀を山崎で討つ。以後、輝元は秀吉支配下の大名となる | 明智光秀の謀反により織田信長討たれる(本能寺の変) |
天正10 (1582) 7月 |
太閤検地が始まる | |
天正11 (1583) 6月 |
羽柴秀吉、大坂城に入城 | |
天正16 (1588) 7~9月 |
毛利輝元、初めて上洛し豊臣秀吉に謁見。聚楽第、大坂城などを訪れる | |
天正16 (1588) 12月 |
毛利輝元、五ケ村への築城をほぼ決定する | |
天正17 (1589) 4月 |
毛利輝元、鍬初めを行い、五ケを広島と名付ける | |
天正17 (1589) 7月 |
毛利輝元、広島城の堀普請を家臣に命じる。史料上「広島」という地名が初めて確認される | |
天正18 (1590) 1月頃 |
普請奉行の二宮就辰、平田屋惣右衛門と共に広島の町割を完成させる | この年、豊臣秀吉が全国を統一する |
天正19 (1591) 閏1月頃 |
毛利輝元が広島城に入城。この時、本丸などの主要な部分が完成していただけで、城は未完成であったと思われる | |
天正19 (1591) 3月 |
検地により毛利家領は中国9か国112万石と定まる | |
天正20 (1592) 4月 |
豊臣秀吉が広島に滞在し、広島城を訪れる | |
文禄2 (1593) |
この年、石垣普請が終了する | |
文禄3 (1594) |
この年、毛利輝元が白神社の社殿を建立する | |
慶長4 (1599) |
この年、普請が終了する。西白島で竣工を祝うための綱引きが行われたと伝えられる | |
慶長5 (1600) 9月 |
関ヶ原の戦いで、毛利輝元が西軍の大将となるが、敗北する | 関ヶ原の戦いで東軍が勝利し、徳川家康が覇権を握る |
慶長5 (1600) 10月 |
毛利輝元は周防・長門二か国へ減封となり、安芸・備後両国(49万石余)には福島正則が移封される | |
慶長6 (1601) 3月 |
福島正則、尾張国清洲(現在の愛知県清須市)より海路広島に入城する | |
慶長6 (1601) 10・11月 |
芸備両国の検地帳作成される | |
慶長6 (1601) 11月 |
福島正則、家臣団へ知行宛行状・知行目録を発給し、知行地を与える | |
慶長7 (1602) 5月 |
福島正則、厳島神社の平家納経を修復 | |
慶長7 (1602) |
この年、福島正則、神辺と三原の間に今津宿を設ける | |
慶長8 (1603) 2月 |
徳川家康、征夷大将軍に任じられる(江戸幕府の成立) | |
慶長8 (1603) |
この年、福島正則、広島城下の町人町を拡大し、東西に市町をたてる | |
慶長14 (1609) |
この年、仏護寺が佐東郡打越村から広島広瀬の北端に移される。以後、その近辺に浄土真宗の寺院が移され、寺町が形成される | |
元和元 (1615) 5月 |
大坂夏の陣で豊臣氏滅亡 | |
元和元 (1615) |
この年、幕府は一国一城令・武家諸法度を発布する(城郭補修の届出制、・新城の禁止) | |
元和3 (1617) 月 |
この年、大洪水により三の丸まで浸水し、石垣や櫓、塀が破損する | |
元和4 (1618) |
この年、福島正則、本丸・二の丸・三の丸惣構の普請を行う | |
元和5 (1619) 6月 |
幕府、広島城の無断修築をきっかけに福島氏を改易する | |
元和5 (1619) 7月 |
浅野長晟が安芸と備後8郡(42万石余)へ移封され8月に入城する。備後7郡と備中の一部は水野勝成が受封し、福山城とその城下町を建設する | |
元和6 (1620) 7月 |
浅野長晟、家臣に対する知行割を行う | |
元和6 (1620) |
この年、浅野長晟が上田宗箇に命じ、縮景園を築造する | |
元和9 (1623) 10月 |
浅野長晟、石川丈山を招き、広島藩儒・藩政の顧問に任命する | |
寛永元 (1624) 12月 |
大地震が起こり、城中の石垣や塀などが多数崩壊する | |
寛永9 (1632) 11月 |
浅野長治、5万石を分封され三次藩を立てる | |
寛永9 (1632) |
この年、周防出身の野村休夢が上田宗箇に弟子入りし、藩中に宗箇流の茶を伝授する | |
寛永12 (1635) 10月 |
幕府の命により、領内の宗門改めを行う | |
寛永14 (1637) 10月 |
島原の乱がおこる | |
寛永16 (1639) 7月 |
ポルトガル船の来航が禁止される | |
正保3 (1646) |
この年、尾長山で東照宮の造営が始まる。慶安元年(1648)7月には神体の遷宮が行われる | |
承応2 (1653) 8月 |
大風雨による洪水がおこる。白島などの堤が切れて城内に浸水、城下町も大きな被害を受ける | |
寛文12 (1672) |
この年、西回り航路が開設される。広島藩領の廻船業も大きく発展する | |
享保3 (1718) 3月 |
広島藩領三上郡から百姓一揆が起こり、藩全域に波及。30万の農民が蜂起する | |
宝暦8 (1758) 4月 |
宝暦の大火。白神五丁目から出火し、元安川以東の大部分が消失する。城内の櫓4ヶ所も焼失。 | |
天明2 (1782) 2月 |
広島藩学問所が開設される | |
文政8 (1825) 9月 |
頼杏坪らが地誌『芸藩通志』(159巻)を完成させる | |
嘉永6 (1853) 6月 |
ペリーが浦賀に来航。翌年、日米和親条約が結ばれる | |
文久2 (1862) 5月 |
本川筋の大がかりな堀川ざらえが行われ、「砂持加勢」と称して賑わう | |
元治元 (1864) 8月 |
第一次長州戦争。広島に幕府の本営が置かれる | |
慶応2 (1866) 6月 |
第二次長州戦争。広島藩は先鋒を辞退、藩境西口の守備につく | |
慶応3 (1867) 12月 |
大政奉還・王政復古の大号令 | |
慶応4 (1868) 1月 |
戊辰戦争始まる。広島藩兵のほか民間人で組織された神機隊などが従軍する | |
明治2 (1869) 6月 |
広島・福山両藩主が知藩事に任命される | 版籍奉還 |
明治4 (1871) 7月 |
広島藩が広島県となり、本丸内に県庁が置かれる | 廃藩置県 |
明治4 (1871) 8月 |
旧広島藩主の上京を機に、全領内で大一揆が起こる(武一騒動) | |
明治4 (1871) 10月 |
本丸内に鎮西鎮台第一分営が設置され、県庁は三の丸に移る | |
明治5 (1872) 4月 |
城内の門や櫓の解体が始まる | |
明治6 (1873) 1月 |
本丸内に第五軍管区広島鎮台が設置される (明治19年1月第五師団と改称) |
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明治6 (1873) 3月 |
県庁が三の丸から小町にあった国泰寺に仮設庁舎を建設して移設される | |
明治9 (1876) 4月 |
備後6郡が岡山県から広島県に移管され、現在の広島県域が成立する | |
明治10 (1877) 2月 |
西南戦争が始まる | |
明治27 (1894) 7月 |
日清戦争が始まる | |
明治27 (1894) 9月 |
明治天皇が広島に到着し、広島城本丸の第五師団司令部庁舎に大本営を開設する(翌年4月27日まで) | |
明治29 (1896) 1月 |
日清戦争で大本営となった第五師団司令部庁舎が大本営跡として永久保存が決まる | |
明治37 (1904) 2月 |
日露戦争が始まる | |
明治42 (1909) 6月 |
外堀の埋め立て工事が始まる | |
明治44 (1911) 3月 |
西塔川埋め立て工事が始まる(大正元年11月竣工) | |
明治44 (1911) 10月 |
広島城の外堀埋め立て工事が竣工 | |
大正元 (1912) 11月 |
外堀と西塔川の跡に広島電気軌道が敷設した路面電車が開業する | |
大正4 (1915) 12月 |
平田屋川・竹屋川の改修工事が竣工 | |
大正7 (1918) 8月 |
米騒動がおこる | |
大正15 (1926) 10月 |
大本営跡が史跡に指定される | |
昭和3 (1928) 1月 |
広島城天守閣と大本営跡の管理が第五師団から広島県へ移管される | |
昭和6 (1931) 1月 |
広島城天守閣が国宝に指定される | |
昭和6 (1931) 9月 |
満州事変がおこる | |
昭和12 (1937) 7月 |
日中戦争が始まる | |
昭和16 (1941) 12月 |
太平洋戦争が始まる | |
昭和20 (1945) 5月 |
広島城本丸内に中国軍管区・第五十九軍の各司令部が設置される この頃、天守閣が一時的に兵舎として使用される |
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昭和20 (1945) 8月 |
原子爆弾により、天守閣・各城門・櫓および城内の軍事施設が壊滅 | 終戦 |
昭和25 (1950) 6月 |
朝鮮戦争が始まる | |
昭和25 (1950) 9月 |
広島城跡が史跡仮指定される | |
昭和26 (1951) 3月 |
広島城跡内で体育文化博覧会が開幕(6月3日まで)。仮設で天守閣が再現される | |
昭和26 (1951) 9月 |
サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約調印 | |
昭和28 (1953) 3月 |
広島城跡が国の史跡指定を受ける | |
昭和30 (1955) |
平田屋川が完全に埋め立てられる | 神武景気 |
昭和32 (1957) 10月 |
広島城天守閣(鉄筋コンクリート)の復元工事が始まる(昭和33年3月26日竣工) | なべ底景気 |
昭和33 (1958) 4月 |
広島城天守閣が広島復興大博覧会第三会場となる(5月30日まで) | |
昭和33 (1958) 6月 |
博覧会終了後一時閉館していた天守閣が「広島城郷土館」として開館する | |
昭和38 (1963) 月 |
内堀の水がほとんど干上がり、それが原因で石垣の基礎が空洞化し、崩れ始める | |
昭和44 (1969) 8月 |
内堀でポリエチレンフィルム敷工事・止水工事が行われる(昭和45年3月まで) | |
平成元 (1989) 4月 |
築城400年記念式典開催。天守閣は武家文化を中心とした歴史資料館としてリニューアルオープンする | |
平成元 (1989) 6月 |
二の丸の補修と復元工事が始まる(表御門・御門橋は平成3年12月、平櫓・多聞櫓・太鼓櫓は平成6年8月竣工) | |
平成元 (1989) |
この年から堀の浄化工事が始まる(平成5年10月完成) | |
平成3 (1991) 9月 |
台風19号の強風で天守閣の鯱・屋根瓦が破損し、平成4年8月から屋根瓦補修工事を始める | |
平成9 (1997) |
この年、毛利元就博が開かれる | |
平成13 (2001) 3月 |
芸予地震で天守閣の瓦が落ち、9月から修復工事を始める | |
平成19 (2007) 6月 |
広島城シンボルマーク制定 | |
平成20 (2008) 3月 |
広島城天守閣再建50周年 | |
平成20 (2008) 6月 |
広島城天守閣内の博物館開館50周年 | |
平成27 (2015) 10月 |
10月20日、1,000万人目の入館者来城 |