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広島城

広島城の歴代城主

lord of castle

毛利氏

毛利氏

毛利 輝元もうり てるもと

城主在任期間:天正19年(1591)-慶長5年(1600)

永禄えいろく6年(1563) の父隆元たかもとの急死により、祖父元就もとなりの後見の下わずか11歳で毛利家の家督を継ぎました。同 8年に元服げんぷくし、将軍足利義輝あしかがよしてるの一字をもらい「輝元てるもと」 と称しています。元亀げんき2年(1571) に元就もとなりが死去すると、叔父の吉川元春もとはる・小早川隆景たかかげの補佐を受け、領地を拡大し、中国地方一円に広がった領国の支配強化を進めました。

このころから毛利氏は、天下統一を目指して播磨国はりまのくに(現兵庫県)に進出してきた織田信長と衝突するようになります。
天正てんしょう4年(1576) 、輝元てるもとは信長と敵対していた将軍足利義昭あしかがよしあきを保護、また信長に包囲されていた石山本願寺いしやまほんがんじに救援を送るなどし、水軍と石見いわみ銀山の富を背景に信長と直接対決します。しかし信長配下の羽柴(豊臣)秀吉の攻勢を受け、山陰・山陽の前線で次第に後退を余儀なくされ、同10年(1582)、備中高松城を包囲していた秀吉と講和こうわを結びました。この時、本能寺の変の報に接して兵を返す秀吉軍を小早川隆景たかかげ進言しんげんにより追撃しなかったのですが、このことによって輝元てるもとは秀吉の信任を得ることになったとも言われています。その後は、秀吉に臣従しんじゅうして四国・九州制圧の先陣を務めています。

天正てんしょう16年(1588)の上洛じょうらくと前後して、領内の惣検地そうけんちと広島築城を開始し、同19年(1591)には、秀吉から9か国112万石を安堵され、本拠地を郡山城こおりやまじょうから広島城に移しました。慶長けいちょう2年(1597)には、五大老ごたいろうのひとりとなり、豊臣政権下で重きをなし、翌年に秀吉が死去した際には秀頼ひでよりの補佐を遺言されます。
しかし、同5年(1600) の関ヶ原の合戦の際に、反徳川家康陣営である西軍の総大将として大阪城に入ったものの実戦には参加せず、西軍は敗北します。結果、周防・長門すおう・ながとの2国に減封げんほうとなり、剃髪ていはつして宗瑞そうずいと号し、子の秀就ひでなりに家督を譲り、後見しました。

福島氏

福島氏

福島 正則ふくしま まさのり

城主在任期間:慶長5年(1600)-元和5年(1619)

福島正則は、永禄えいろく4年(1561) に尾張国海東郡二寺村おわりのくにかいとうぐんふたつでらむら、現在の愛知県海部郡あまみぐん美和町に誕生しました。母は豊臣秀吉の叔母と伝えられ、秀吉とは従兄弟の関係にあたり、正則は幼少の頃より秀吉に仕えたと伝えられます。

正則の名が広く知れ渡るのは、天正てんしょう11年(1583)の賤ケ岳しずがだけ合戦で、正則は一番やり・一番くびの活躍をしました。これにより、正則ら 7名は、「賤ケ岳しずがだけ七本鑓しちほんやり」として称賛されましたが、正則の働きは他の面々より上とされ、恩賞おんしょうでは別格の扱いを受けました。その後、天正てんしょう15年(1587)には伊予国いよのくに今治城(愛媛県今治市)の城主となり11万石を領し、文禄ぶんろく4年(1595)には尾張国清洲おわりのくにきよす(愛知県清洲市)の城主となり24万石を領しました。

秀吉の死後、正則は石田三成と対立し、関ヶ原合戦では、豊臣恩顧おんこの大名でありながら、東軍に属し、先陣せんじんを勤めるなど、東軍勝利の功労者となりました。

関ケ原合戦後、正則は徳川家康に仕えつつも時に豊臣家臣としても行動しましたが、そのような関係も慶長けいちょう20年(1615)の豊臣氏の滅亡によって終わりました。

浅野氏

浅野氏

浅野 長晟 あさのながあきら

城主在任期間:元和5年(1619)-寛永9年(1632)

元和げんな5年(1619)8月、広島城に入城した長晟ながあきらは、法度はっとの通達や、有力家臣の領内派遣などで領主交替に伴う混乱に備えつつ、同年10月に福島氏時代に支城の置かれた三吉、三原、小方、東城の地に4人の家老かろうを配置し、地域支配のかなめとしました。これらのうち三原城のみは、幕府が存続を許可し、明治維新を迎えるまで存続しました。同年11月、長晟ながあきらは、4家老の一人で以前から反当主的な態度を取る浅野知近ともちかを広島城内で謀殺ぼうさつし、以後当主としての権力を強化し、家臣団の掌握しょうあくを強めました。

長晟ながあきらは、家臣に俸禄ほうろくとして土地を与える地方知行制じかたちぎょうせいを採用しましたが、家老かろうを除く一般藩士の場合、土地・農民との関係は年貢徴収権のみに限定されていました。基本的に幕末に至るまで、この制度は続きます。また、主要な町や港は家臣の給地きゅうちとせず、藩主直轄地ちょっかつちとしています。

藩財政の基本となる税制度の多くは、福島氏時代のものを継承し、その他、町や村の支配に関する制度も、おおむね福島氏時代のものが継承し、それらを補強することで、藩制機構の整備が進められました。

浅野 光晟あさの みつあきら

城主在任期間:寛永9年(1632)-寛文12年(1672)

長晟ながあきらの死去により家督を相続した光晟みつあきらは、3家老(三原の浅野忠吉ただよし、小方の上田宗箇そうこ、東城の浅野高英たかひで) を世襲制せしゅうせいとするなど、引き続き藩政機構の整備を進めるとともに、広島湾頭等で大規模な新田しんでん開発を進め、さらに寛永かんえい15年(1638)と正保しょうほう3年(1646) に地詰じづめ(検地)を実施し、藩の財政基盤の拡大・確立を図りました。また、寛永かんえい10年(1633)、幕府巡検使じゅんけんしの入国に際して、領内の道路・駅制を整備し、太田川・三篠川上流部までの舟運しゅううんも、寛永かんえい年間(1624-44) までに整備しました。この他、光晟みつあきらは藩内のます京桝きょうますに統一し、町や村で五人組の制度を確立しました。
なお、光晟みつあきらの家督相続にあたっては、兄長治ながはるに5万石が分封ぶんぽうされ、支藩の三次藩が誕生しました。

浅野 綱晟あさの つなあきら

城主在任期間:寛文12年(1672)-延宝元年(1673)

寛文かんぶん12年(1672) 4月、光晟みつあきらが55歳で隠居すると、その子綱晟つなあきらが家督を継ぎました。しかし、綱晟つなあきらは相続後わずか一年半で没しました。

浅野 綱長あさの つななが

城主在任期間:延宝元年(1673)-宝永5年(1708)

綱長つなながの時代になると、全国的な商品経済の発達に伴い、藩の支出が増大したため、藩の財政が貧窮ひんきゅうし始めました。これに対し、綱長つなながは、家臣から年貢収入のよっ五分ごぶ(45%) を借り上げ、延宝えんぽう3年(1675) から元禄げんろく12年(1699)までの25年間、地方知行ちょぎょう制度を俸禄ほうろく制度に変更して財政の再建を試みました。また、倹約を奨励しょうれいし、主要な特産品に対して運上金うんじょうきんを課税したほか、鉄・紙の専売制の実施、藩札の発行と、再建策を打ち出しました。宝永ほうえい4年(1707) には増税策を打ち出しましたが、領民が広島城下に押し寄せて廃止を迫ったため、翌年には撤回されました。

浅野 吉長あさの よしなが

城主在任期間:宝永5年(1708)-宝暦2年(1752)

困窮こんきゅうした財政を再建すべく、吉長よしながは藩政改革に取り組みました。吉長よしながは、宝永ほうえい6年(1709) に 3家老がろうを藩政の実務から外し、有能な人材の登用を図りました。それまでは無かった藩の役人の政庁せいちょう御用ごよう屋敷」「御用達所ごようたつしょ」 を新設し、職制を改めました。また、年貢増徴を図るため、郡制改革を行い、享保きょうほう2年(1717) には年貢課税率を一定とする定免制じょうめんせいを採用しました。しかし、郡制改革に対する領民の不満が爆発し享保きょうほう3年(1718)には領民30万人が蜂起ほうきする一揆いっき (享保一揆きょうほういっき)がおこりました。これにより、郡制度は旧来のものに戻され、吉長よしながの改革は後退しました。

享保きょうほう5年(1720) には、三次藩が改易となりましたが、吉長は後継断続に備えるため、弟長賢ながかた蔵米くらまい3万石を与え、享保きょうほう15年(1730)に青山内証分家ないしょうぶんけが成立しました。

浅野 宗恒あさの むねつね

城主在任期間:宝暦2年(1752)-宝暦13年(1763)

吉長よしながの死去に伴い家督を相続した宗恒むねつねは、藩財政の困窮こんきゅうが続くなか、「節倹せっけん政治」を基本とした改革(宝暦ほうれき改革)を進めました。宗恒むねつねは、宝暦ほうれき4-10年(1754-60) までの 7年間、藩士の知行ちぎょうを削減するまい(半知はんち)を実施して藩財政の収入にしました。また、地概じならしと呼ばれた検地を実施して年貢の確保を図ったほか、農村再建策として郡村の債権の廃棄あるいは整理を断行しました。これらにより、藩の負債は減少しました。

宝暦ほうれき13年(1763)、宗恒むねつねは改革の半ばで隠居しました。その原因は江戸在府中における大名間の確執かくしつとされます。

浅野 重晟あさの しげあきら

城主在任期間:宝暦13年(1763)-寛政11年(1799)

宗恒むねつねの後見のもと、宝暦ほうれき改革を継承した重晟しげあきらは詳細な規定をもりこんだ倹約令を発布し、その徹底を図りました。また、明和めいわ6年(1769) には絹座きぬざを設置し、養蚕ようさん絹織業きぬおりぎょうの振興・保護を試みました。このような、緊縮きんしゅく財政政策や積極的な国産品の自給化政策により、藩財政は大幅に改善されました。
一方、祖父吉長よしながの代以降、農村部を中心に凶作や飢饉ききんへの対策が必要となっていましたが、明和めいわ7年(1770) に藩独自の社倉法しゃそうほうが発表されると、安永あんえい9年(1780) までに、領内全域に社倉しゃそうが設けられました。
このほか、重晟しげあきらは学問・教学の振興にも力を注ぎ、広島城内に藩学問所はんがくもんんじょを設置し、頼春水らいしゅんすい・香川南浜なんびん等の学者が登用されました。

浅野 斉賢あさの なりかた

城主在任期間:寛政11年(1799)-天保元年(1830)

斉賢なりかたの時代は、父重晟しげあきらの代以来の国益政策が積極的に推進されました。文化ぶんか14年(1817)には、特産品の開発やその領外販売を担当する「諸品方しょしながた」が設置され、その下部機構である「国産御用懸ごようかかり」と共に領内各地で商品価値の高い特産品の生産が進展しました。これらの政策により、斉賢なりかたの代は藩政期を通じて最も藩財政が安定していました。

斉賢なりかたの時代には、文化・教育面でも積極的な政策が展開されました。藩の公式記録集である「済美録せいびろく」 (長政ながまさ宗恒むねつね期)が完成し、「旧臣録きゅうしんろく」「諸士略伝しょしくりゃくでん」といった史伝しでんや、「芸備国郡志げいびこくぐんし」 等の地誌ちし編纂へんさんが盛んに行われました。また、私塾しじゅく家塾かじゅくも盛んになりました。

浅野 斉粛あさの なりたか

城主在任期間:天保元年(1831)-安政5年(1858)

斉粛なりたかの時代、それまで安定していた藩の財政が、幕府公役や天災による損失で破綻はたんし、物価の高騰こうとう等から領国経済が混乱し米問屋・米商べいしょうを襲う打ちこわしや一揆いっき・騒動が多発しました。p この時代、藩政の実権は、家督相続にあたって斉粛なりたかを推した藩重役(関蔵人せきくらんど、後に今中相親すけちか)が握っており、彼らにより商業・金融重視の政策が展開されました。特に今中は、藩営の頼母子講たのもしこうとも言える「六会法ろくかいほう」を実施したり、藩による木綿・扱苧こぎその専売制を開始したほか、藩札の価値を40分の1、さらに500分の1に引き下げるなど、斬新ざんしんな政策を打ち出しましたが、効果はありませんでした。
その一方で、ペリー来航をきっかけとする軍事的危機意識から、軍事面を担当する番方藩士を中心とする改革派の動きが活発になり、斉粛なりたかへ藩政改革の建白書けんぱくしょが提出されました。これにより、今中は藩政から退きましたが、改革派が実権を掌握しょうあくしなかったため、大きな変化はありませんでした。

浅野 慶熾あさの よしてる

城主在任期間:安政5年(1858)4月-9月

安政あんせい5年(1858) 、病気がちだった斉粛なりたかは54歳で隠居し、その子慶熾よしてるが23歳で家督を相続し、藩政改革が期待されました。しかし、慶熾よしてるはわずか 5ケ月で急死しました。慶熾よしてるの死は、しばらくの間幕府にも隠され、青山分家の長訓ながみちの家督相続が申請された後に公表されました。

浅野 長訓あさの ながみち

城主在任期間:安政5年(1858)-明治2年(1869)

青山内証分家ないしょうぶんけから家督を相続した長訓ながみちは、文久ぶんきゅう元年(1861)に帰国すると、領内を視察して諸事情の把握に勤め、その後藩政の改革を進めました(文久ぶんきゅうの改革)。

長訓ながみちは、辻将曹つじしょうそうら改革派を抜擢ばってきし藩重役に任命、家老・一門かろう・いちもんも藩政に参加させ、郡制度の整備、西洋式軍制や農兵の採用による軍備充実、薩摩・長州等の雄藩ゆうはんとの交易に重点を置いた改革を進めました。

元治がんじ元年(1864) から慶応けいおう2年(1866)の二度にわたる長州戦争以後、広島藩では反幕府的な気運が高まり、同 3年(1867) 9月には、挙兵倒幕きょへいとうばくを前提とした薩摩・長州・広島による三藩同盟が結成されました。しかし、翌10月には、土佐藩に続き大政奉還たいせいほうかん建白書けんぱくしょを提出し、倒幕とうばくを主張する薩・長両藩と、穏健おんけん派の土佐藩との間で調停に奔走ほんそうしました。

浅野 長勲あさの ながこと

城主在任期間:明治2年(1869)-明治2年(1869)

明治2年(1869) 2月に家督を継いだ長勲ながことは、同年6月の版籍奉還はんせきほうかんによって知藩事ちはんじとなりました。長勲ながことは藩政の改革に着手しましたが、同4年(1871)7月の廃藩置県はいはんちけんにより知藩事ちはんじも辞任しました。同時に、旧藩主は全て東京に集住しゅうじゅうすることになったため、同年8月に前藩主長訓ながみちが上京しようとしましたが、その際旧広島藩領の住民が引き止め運動をおこし、一揆いっきに発展しました。この一揆いっきは、首謀者の名から 「武一ぶいち騒動」と呼ばれています。