慶長5年(1600) 10月頃から、福島氏は領国経営の基礎固めの作業を進めてゆきます。
まず、福島氏は改易前に毛利氏が収納した年貢の数量を調べその返還をせまりました。また、芸備両国内に残り浪人となった毛利氏旧家臣を調査し、福島氏の家臣となるか農民となるか選択を迫ったとされます。
福島氏は毛利氏と同様に広島城を居城とし、領国支配の中心としたほか地域支配あるいは国境の守備のため、小方(大竹市)、三吉(三次市)、東城 (庄原市東城町)、鞆(福山市鞆町)、三原(三原市)、神辺(福山市神辺町)の6か所に支城を設置し、有力家臣を配置しました。
家臣の配置状況からは、三原城が支城の中で最も重視されていたことが窺えます。
なお、元和元年(1615)の一国一城令により、三原城を除く5つの支城は廃城となりましたが、幕府は三原城のみ存続を許可し、その後も存続しています。
慶長6年(1601)の秋までには、福島氏は経済的基盤の確立のため、領内の検地を実施し、それに基づき家臣に知行地を与えました。また、この検地の結果、芸備両国には 900余の「村」が誕生しました。
村は郡単位に置かれた郡奉行のもと庄屋などの村役人によって統治され、石高を基準とした年貢徴収制度が整えられました。また、広島等の城下町並びに宮島・尾道等の経済の要所は商工業者の活動地域「町」として定められ、村と区別されました。農民、商工業者、武士は明確に区別され、近世的な身分制度が確立されました。
交通に関しては、福島氏は西国街道の三原・神辺間に今津宿(福山市今津町)を整えたこと、蒲刈島三之瀬(呉市下蒲刈町)に長雁木を築き港湾機能を整備したことなど、陸路・海路の積極的な整備が伝えられています。
この他、福島氏は広島城下の発展のため、城の北部を通っていた西国街道を城下に引き入れ、町人の居住区を拡大したこと、東西 2ヶ所に市を立て、商業の発展を図ったことなどが伝えられています。