城下町とは、城を中心として形成される町のことです。戦国時代以降に発展し、江戸時代に入ると、武士に加え、町人階層も職業別に住むなど、主に商業、交通の中心となり、大規模な消費経済が発達していきます。
広島は近世城下町として発展した典型的な都市です。城下町広島は、広島城を築城した毛利輝元及びその後入部した福島正則によって、造られました。
history
近世の城下町
城下町とは、城を中心として形成される町のことです。戦国時代以降に発展し、江戸時代に入ると、武士に加え、町人階層も職業別に住むなど、主に商業、交通の中心となり、大規模な消費経済が発達していきます。
広島は近世城下町として発展した典型的な都市です。城下町広島は、広島城を築城した毛利輝元及びその後入部した福島正則によって、造られました。
福島正則の改易の後、広島城に入国した浅野長晟以降、福島時代の基本的な城下町の形は、変らなかったと考えられています。元和5年(1619) の浅野長晟入国時には、城下には63町が存在しました。
この数年後の様子は寛永年間 (1624-1643年、江戸時代初期)の城下町を描いた「寛永年間廣島城下図」(広島城蔵)に見ることができます。
この絵図では、武家町が3重の堀に囲まれた城をとりまく形で北と東に配置され、灰色で描かれた町人町は、広島城の南側を通る西国街道に沿って東西に広がっていることがわかります。
町人町は、職種ごとに集められ、この絵図にも城下町の活気を髣髴とさせる「かぢや丁」、「材木丁」、「西魚町」、「鉄砲屋町」などの職名を冠した様々な町名が書かれています。
この絵図は、浅野時代の広島を描いた最も古い絵図の一つですが、広島城下町の中心部は幕末までほとんど変わりませんでした。
その後城下町は、中心部から海側に向かって広がりを見せます。広島の場合、平地が少ないので、海に向かって干拓され、新開と呼ばれる埋立地が形成されます。
正徳年間 (1711-1716年、江戸時代中期)の様子と考えられている「広島城下町絵図」(広島城蔵) を見ると「寛永年間廣島城下図」と比べて、明らかに南に新開が広がっていること、また城下町の周囲にも部分的に町が広がっていることが分かります。
では、城下町はどのような賑わいを見せていたのでしょうか。そのことを示す具体的な資料として、文化年間(1804-1818年、江戸時代後期)に描かれた「広島城下絵屏風」(広島城蔵)があります。
この屏風は、西国街道に沿った城下町の主要部分が描かれている貴重な絵画資料で、街道沿いに立ち並ぶ商家や神社や門、そこで暮らす武士や町人、馬、船などが春夏秋冬に分けられて鮮やかに描かれており、西日本でも随一と言われた賑わいの様子を示しています。
これらの資料に見ることのできる城下町は、現在の姿とは異なります。しかし、現在の紙屋町という町名はかつても「紙屋」の町であり、また現在の広島市のアーケード本通り商店街はかつて西国街道の道筋であったことなど、ビル群が林立する百万都市広島にわずかながら近世の名残をとどめています。